STAND BY ME 2


 朝は忙しくて、お互い昨夜のことには触れなかった。
 会社に着いてもあや女は少しぼんやりしていて、伝票の数字を間違えて課長に怒られてしまった。
「ミスって叱られたんだって?」
 昼休み、食堂で向かいの席に座った俊成が、イタズラっぽく笑った。
「仕方ないっす。あたしが悪いんだから」
 そう言いながら、あや女はうどんをすすった。いつもなら、俊成の真向かいで麺をずるずるすするなんて恥ずかしくてできないのだが、今日のあや女はそのことに気づいていない。
「あいつ、里見さあ、本当にあや女のところに泊まりにいったの?」
 カレーを食べながら、俊成が切り出した。
「うん。まだ新居決まってないみたい」
 訊かれることは予想していたが、なんとなく俊成に他の男の話をするのは嫌だった。
「そっか。あや女ちゃんも、とうとう人のものになっちゃったか」
「なにしみじみ言ってんのよ、新婚野郎が。それに、あたし先生とはなにもないからね」
「またまた、照れちゃって。健康な男と女が、一つ屋根の下でなにもないわけないだろうが」
 あや女はムカッときて言い返そうとした。しかし、俊成が続けて言った言葉に耳まで赤くなった。
「俺だったら襲っちゃうね。今だから言えるけど、俺、昔あや女のこと好きだったもん」
 あや女は箸を置いた。うどんなんかすすっている場合じゃない。
「調子いいこと言って。そんな素振り、全然なかったじゃない」
「あや女、堅そうだったから。軽蔑されたり、嫌われたりするのが怖かったんだよ。俺に、里見みたいなチャンスがあったら……」
 隣のテーブルに人がきたので、俊成はその先は言わなかった。
「ま、でも里見で良かったよ。あいつなら俺も許せるし。って、俺の許可なんて要らないか」
 そう言って一人で笑うと、俊成はダッシュでカレーを食べて席を立った。後には、あや女とのびたうどんが残された。
(今だから言える、か)
 俊成にとって、あたしは過去なのだ。
 午後、あや女は午前中の失敗を取り戻すかのように、テキパキと仕事を片付けた。
 なんとか残業なしで早く帰りたかった。早く独りきりになって、ゆっくりと考えたかった。

 しかし、なかなか独りきりにはなれないのだった。
 家に帰ると、里見が居間でポテトチップを齧りながらテレビを見ていた。テーブルの上には、赤い丸やバツのついたプリントがたくさん載っている。
「なんで、そんなに早く帰ってるのよ!」
 あや女は、思わず怒ったような口調になった。
「中間テストだもん」
「だったら部屋探しでもしてきたら」
「もう決めたよ。明日出てくから」
 あっさり言われて、あや女は拍子抜けした。そして、意外にも少し寂しいと感じた。
「俺がいないと寂しい?」
 里見が笑いながら言うので、あや女はあわてて自分の気持ちを引っこめた。
「まさか! せいせいするわ」
「そう言うと思った。カレー作ったんだけど、食う?」
 言われて気がついたが、部屋の中にはカレーの匂いが充満していた。
「先に食っちゃえと思ったんだけど、大きいスプーンがどこにあるのかわからなくてさ。もし帰りが遅かったら、箸で食うつもりだった」
 里見はそう言ったが、あや女は、彼が待っていてくれたんだと気づいた。スプーンなんて、引き出しを開ければすぐに見つかる。
 カレーの匂いをかぐと、俊成のことが思い出された。しかし、今日は考えないことにした。今日は、里見と過ごす最後の夜だから。俊成のことは、明日一人になってから考えればいい。
 その時、インターホンが鳴った。
「ちょっとガス消しといてくれる」
 そう言いながら、あや女は受話器をとった。「はい?」
『……桜子』
 あや女はあわてて玄関のドアを開けた。現れた顔は、間違いなく異母妹だった。長い髪を背に垂らし、大人っぽいカットソーにロングスカートを身につけている。あや女は急に、自分の無造作に束ねた髪や、よれよれの綿シャツ、ジーパンが恥ずかしくなった。
「あんたがここにくるなんて珍しいね。入んなよ」
 あや女は、強いて落ち着いて話した。だけど、桜子はあや女のほうを見ようとはせず、玄関に置かれた大きなリーガルの靴を見つめていた。
「なんか用事なんでしょ?」
「……あんたにじゃない。里見出して」
 桜子の態度に、あや女はムッとした。しかし、「家庭の事情」を考えると、打ち解けあえるわけもないと思い直した。
「先生―! お客さんだよ」
 里見はのそのそと出てきたが、桜子を見ると心底驚いたような表情をした。
「江口、まさか、後をつけて……え? 江口って?」
 里見は、ようやく二人の名字が同じ事に気づいた。
「里見!」
 桜子は、いきなり里見に抱きついた。
「おい、こら、どーしたんだよ、いきなり」
 パニックになりかかっている里見を尻目に、あや女は開けっ放しになっていたドアを閉めた。
「続きは中でやってよ。カレーを食べよう」

 食卓では、誰も口をきかなかった。あや女は無心にカレーを食べ、里見はがつがつとカレーを食べ、桜子はスプーンを弄んでいる。
 やがて、沈黙に耐えられなくなった里見が口を開いた。
「ちゃっちゃと食えよ。送ってっちゃるから」
「あたし、帰らないもん。ここに泊まる」
 桜子の言葉を聞いて、あや女はカレーを吹き出しそうになった。
 何年前のことだかも忘れたけれど、最後に桜子と会った日、桜子はあや女を憎んでいた。
 あや女には生まれたときから両親がそろっていたけれど、桜子にはずっと父が欠けていたから。そして、それはあや女のせいだったから。
 あや女は、桜子の母や、自分の母の恋人には何の感情もなかった。彼女たちは「大人」だから。不倫もシングルマザーも、自分で選択したのに違いないから。
 でも、桜子は――桜子は、望んで父親のいない家庭に生まれてきたのではなかった。
 だからあや女は、桜子には憎まれても仕方ないと思っていた。
 その桜子が、あや女の家に泊まりたいと言っている。
「お父さんにはなんて言ってきたの?」
「あんたに関係ない」
「ここはあたしの家!」
 桜子は、あや女を無視して里見を責めた。
「どうして里見があや女の家なんかにいるのよ! あたしじゃだめだって言ったのに、あや女ならいいの?」
 ……呼び捨てだし。あや女は、がっかりする。
「おまえは未成年だろうが」
「年なんて関係ない」
「俺とあや女も、なんも関係ないんだよ」
「嘘。なんでもなくて、あや女が部屋に男泊めるわけないもん」
「なんで、桜子がそんなこと断言できるのよ」
 あや女が驚いて口を挟むと、桜子は少し赤くなって悔しそうに言った。
「パパがいっつも言ってるもん。あや女は真面目で、しっかりした娘だって」
 桜子は、急に矛先を変えた。
「だいたい、あや女はずるいのよ。いっつもあたしの欲しいもの、先に手に入れてさ」
「俺はもの?」
 里見の呟きは、二人の耳に入らなかった。
「親父のことは仕方ないにしても、先生のことは誤解だって。本当になにもないんだから」
「いい年した男と女が、一つ屋根の下でなにもないわけないじゃん!」
(俊成にも同じことを言われた……。なにもないのは、あたしに魅力がないってこと?)
 あや女の、女としてのプライドはボロボロだった。
「変なふうに勘ぐるなよ。俺は、そんな野獣じゃねえよ。本当になんもないんだ」
 里見が諭すように口を出したが、桜子は聞く耳を持たなかった。
「そうやって、あや女のことを庇うの」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ、まだ好きなのね。幸ちゃんのこと」
 里見の顔が、蒼白になった。その表情を見ると、桜子は小気味よさそうに笑い出した。
「なあんだ。やっぱりそうなんだ。残念だったわね、あや女。里見はあんたのものにはならないわよ。里見はゲイなんだもん」
 桜子は、そのまま苦しそうに笑い続けた。里見は、桜子の頬を平手で打った。笑いの止まった桜子の瞳から、涙が一筋流れている。
「帰ろう。送るから」
 そう言うと、里見は立ち上がった。桜子も、素直に里見に従った。
 二人はなにも言わず、あや女もなにも言わず、やがて彼らの姿がドアの向こうに消えた。

 里見が戻ってきた時、テーブルの上は既に片付いていた。
 あや女は居間で、ワイルド・ターキーをロックで飲んでいる。
「せめて水割りにしとけや。明日も仕事だろ」
 里見が疲れたように言った。さっき出て行ったときから、まだ二時間も経っていなかった。
「帰ってこないかと思ってた」
「それで寂しくて、やけ酒飲んでたとか」
 里見は笑いながら言うが、あや女は冗談にのれる気分じゃなかった。無言で琥珀色の液体を口に含み、飲み下した。
「しっかし、おまえらが姉妹だったとはな」
 里見は冷蔵庫からビールを取り出し、あや女の横に座った。
「半分だけね。親父が愛人に生ませた子さね。――今は正妻だけど」
「それでか」
 里見はプルトップを引き上げ、一口飲んだ。
「入学した頃から、なんだか荒れててね。いろいろ話とか聞いてやってるうちに、その、な……」
「ありがちなパターンだな」
「でも、手は出してないからね。おねーさん」
 ゲイだからね、と言いたいのをあや女はこらえた。グラスに氷を足しながら、何気ないふうに言う。
「どうして最初から、幸ちゃんのところへ転がり込まなかったのよ」
 里見は、テレビを眺めながらビールを飲んでいた。画面では、素人が旅をしながら恋もするとかいう番組をやっている。
「幸弘は、俺の一番大切な人間だった」
 想いが届かず悩んでいる男の表情を見ながら、里見は過去形で話し始めた。
「大学の同級生で。――俺らビンボーだったから、二人でお水のバイトやったり、酔っ払ったまま海まで車走らせたり。バカなことばっかりやってたけど、いい奴だった。あや女も会ってたら、きっと惚れたぞ」
 あや女はなにも言わず、肩をすくめた。里見は少し笑って、また話し続けた。
「頭はいいし、顔もいい。友達も大事にするし。みんな、あいつのことを完璧だと思っていた。たった一つの欠点は、長生きしなかったってことだな」
 言葉を切って、里見はまたビールを飲んだ。
 あや女は、なにも言えなかった。なにを言ったらいいかわからない。強いアルコールも、今は口を滑らかにしてくれない。テレビの笑い声だけが、虚しく部屋に響く。
「桜子に初めて会ったのは、幸弘の葬式の時。あいつが中学に上がったばかりの頃で、俺はそんなガキ、覚えてもいなかった。でも、あいつは泣いてた俺を覚えていたんだな」
「泣いたの?」
「ああ。鼻水たらしてビービー泣いたよ。泣くしかできなかった」
 里見は、少し自嘲的に笑った。
「俺の勤めてる高校にあいつが入学してきた時、びっくりしたよ。面差しが幸弘とそっくりなんだ。無理ねえよな。従兄妹だっていうんだから」
 そこまで言ったとき、里見はふと気づいたように、あや女を見た。
「もしかして、あや女も? 幸弘と雰囲気は似てるけど」
 あや女は首を振った。
「違う。たぶん、桜子の母方の親戚よ」
「そっか。気のせいか」
 里見は立ち上がり、冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。飲んでいる横顔が寂しそうなので、あや女はからかうこともできなかった。
 だが、里見はすぐにしんみりした雰囲気を破るように明るい声で言った。
「でも誤解するなよ。俺と幸弘は、体の関係はないからな」
「わざわざ言うの、なんか言い訳がましい」
「ちゃんと言っておかないと、女って際限なく妄想ふくらませるだろ。桜子も、なんか勘違いしてるんだよな。そっち系のマンガとか小説の読みすぎなんじゃねえの」
 里見の言葉のバカにするような響きに、あや女はカチンときてしまった。間の悪いことに、今頃強いアルコールが効きはじめている。
「じゃあ、幸弘とはしてなくても、基本的に男が好きなのね」
 だからあたしには手を出さなかったのね、という言葉はかろうじて引っ込めた。
「俺は幸弘が好きだっただけだ。男も女も関係ねんだよ。好きだから、そばにいたいと思っただけ」
「シンプルね」
「単純ってこと?」
「そうかも」
 確かに、好きだからそばにいたいと思うのは単純だ。だけど、単純だからといって、その想いを笑うことはできない。その想いは、あや女にも経験があるから。
 あや女は首を振り、突き放すように言った。
「ま、男だろうと女だろうと構わないけどさ、生徒に手を出して首にならないようにね」
「桜子には手を出さないって」
「桜子のこと好きなら、あたしは別に構わないけど」
「俺は、生徒は恋愛対象にしてないの」
「あ、そ」
 別に、里見が誰を恋愛対象にしていようと関係なかった。
 あや女は立ち上がり、キッチンに行ってグラスを洗い始めた。その後姿に、里見が声をかける。
「あや女はー、さっさと男作れ。いつまでも先輩に惚れてないで」
 泡だらけの手から、グラスが滑り落ちた。幸いにも割れていない。
「なんのことよ」
「一目瞭然だっつーの。ちょっと注意して見てりゃな」
「ヘンな言いがかりつけないでよ! あたし、俊成のことなんてなんとも思ってないんだから」
 言いながら顔が赤くなってしまうことが、とても悔しかった。もっと冷静に、もっとクールに言い返したいのに。
「意地張ったって、なんもいいことねえんだよ。先輩だって、本当はあや女に惚れてたんだから。それを、キューピットだなんて余計なこと……」
 少しの間忘れていられた、あの昼の食堂での会話が思い出される。
「先生には関係ない」
 やっと、あや女は低い声で言った。
「……それもそうだよな。悪かったな」
 おやすみ、と言って里見は居間から出ていった。

 翌日会社から戻ると、もう里見はいなかった。彼の使っていた鍵は、郵便受けの中に入っていた。
 あや女はテレビをつけ、着がえをして昨夜の残りのカレーを温めた。
 部屋中にカレーの匂いが漂い、テレビからは笑い声が響く。
 独りだった。三日前までと同じ。なのに、部屋がこんなにも広く感じられる。
 たった三日間で、「二人」に慣れてしまっていたらしい。
 里見の作ったカレーをスプーンで弄びながら、あや女は里見との会話を反芻してみた。自分でも嫌になるくらい、彼の言葉を一つ一つ覚えていた。
 そして、涙をそっと拭ってくれた温かい指……。
「ちきしょう!」
 あや女は乱暴に皿を前に押しやり、テーブルに突っ伏した。
 昨夜、なんで俊成のことであんなに怒ってしまったんだろう。
 あいつがいないだけで、なんでこんなに泣きたくなるんだろう。
 この気持ちは、たぶん……。
 バカだ。今更。
 もう二度と会うこともないのに。
 二つある里見との接点、俊成と桜子には、こんな気持ちは打ち明けられない。
 今は、まだ。
 でも、会いたい気持ちが抑えられなくなったら、彼らのところへ行くかもしれない。里見の消息を聞くために。
 そして、それから?
 里見に会って、この気持ちを伝えられる日がくるのだろうか。
 しかし、今のままのあや女なら、会えたとしても意地を張って終わりだろう。二十五歳にもなるのに、不器用で。自分の気持ちひとつ、上手く相手に伝えることができなくて。
 何度こういう気持ちを繰り返せば、独りぼっちから抜け出すことができるのだろう。

 翌朝、インターホンが立て続けにならされる音で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の四時半。その間も、まだインターホンは鳴り続いている。
「誰?」
 寝起きの不機嫌な声で言うと、相手は一瞬怯んだように沈黙した。やがて、切羽詰った女の声がした。
『桜子』
 あや女は乱暴にチェーンロックをはずした。ドアを開けたとたん、桜子が飛び込んできた。
「里見は?」
 桜子の目は、一心にリーガルの靴を探している。
「いないよ。新居決まって、昨日出てった」
「どこへ?」
「知らない」
 それで帰るだろうと思っていたが、桜子は帰らなかった。玄関で突っ立ったまま、なにか考え込んでいる。
 五月も末とはいえ、明け方は寒い。あや女はパジャマの上から、両腕をさすった。
「とりあえず入ってよ。茶でも淹れるから」
「あや女」
 あや女の言葉を無視して、桜子は言い出した。
「あたしをここに住ませて」
 あまりにも唐突な申し出で、あや女は一瞬これは夢だろうと思った。
「皿洗いでも掃除でもなんでもするから。パパが海外赴任することになっちゃったの。家族全員でシンガポールに行くって。あたし、日本を離れたくない。里見のそばにいたいの。おねがい、あや女、あたしをここにおいて」
 早口でしゃべる桜子に、頭がくらくらしてきた。やはりこれは夢に違いない。目を覚ますには、熱いお茶を一杯飲まなければいけない。
 無理やり桜子を居間に引っ張り入れ、熱いダージリンを淹れる。その間も桜子は、うわ言のように繰り返していた。
「あたし、里見のそばにいたい。里見のいないところなんて、絶対いや」
 そして、とうとう泣き出してしまった。
 昨夜、あや女はなかなか寝付かれなかった。明け方近くなってやっとうとうとしたと思ったら、桜子にたたき起こされた。
 だから、こんな頭の中に霧がかかったような気分なんだ。きっとそうに違いないんだ。
 しかし、どう説明をつけても目の前で泣いている桜子は、夢ではなかった。

 なんとか桜子を宥めて、家に帰り学校へ行くように説き付け、あや女も会社へ行った。
 会社から電話をして、仕事帰りに父親と会う約束をした。
 正直、桜子と一緒に住みたいとは思わなかった。しかし、桜子に対しては罪悪感がある。ここで桜子の願いをかなえることができれば、少しでも、彼女から父を奪っていたことへの罪滅ぼしができるような気がした。
 久々に会う父は多少白髪が増えていたが、相変わらず活力にあふれ、自分のすべてに自信を持っているようだった。
「会うたびに母さんに似てくるな」
 挨拶の後で父に言われたが、あや女はうれしくなかった。性格はともかく、顔だけなら父に似たほうがいい。
「会社の若い子に教えてもらったんだ」
 そう言いながら、父は変わった外観のタイ料理店へあや女を連れて行った。やけに辛いスープを飲みながら、あや女は、桜子のことをどう切り出したものか迷っていた。
「あや女は、誰か結婚したい男でもできたのか?」
 父の問いに、あや女はあわてて首を横に振る。
「なんだ、違うのか。おまえから会いたいなんて珍しいから、てっきり結婚の話かと思ったのに。オクテだよなあ、あや女は。父さんがあや女の年頃には、もうおまえがハイハイしてたんだぞ」
 ……あんたと一緒にしないでよ。
 あや女は、桜子のことをさっさと話すことに決めた。
「今日連絡したのは、桜子のことなの。父さん、シンガポールに赴任することに決まったんでしょ」
「桜子に聞いたのか?」
「そうよ」
「桜子が、おまえに会いに行ったのか?」
「そうよ」
「いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?」
 ……その話は置いとけよ。
なかなか本題に入ることができなくて、あや女はイライラし始めた。
「そうか。あや女と桜子がなあ。腹違いとはいえ二人きりの姉妹なんだし、いつかは仲良くなってくれればと願っていたんだ。いやあ、良かった、良かった」
 父は心底うれしそうに、何度も何度も頷いている。
 勝手なことを、と思ったが、桜子を日本に残すように説得するには仲良し姉妹路線は有効かもしれない。そう考え直して、あや女は父に調子を合わせた。
「それでね、桜子のことなんだけど、あたしが面倒みるから日本に残してあげてくれないかなあ」
「それはダメだ」
 即座に否定されて、あや女はがっかりした。しかし、ここであっさり引き下がっては罪滅ぼしにならない。
「桜子も高校二年生でしょ。受験のことを考えると、日本にいたほうがいいと思うんだけど」
「あの勉強嫌いが、大学にいくと思うか?」
 ……あのバカ。あや女は密かに唇を噛んだ。
「嫌いな勉強を無理してさせるよりも、海外に出て視野を広げたほうが桜子のためにはいいさ。自分探し、というんだっけ?」
 ……親と一緒にする自分探しに価値があるのか? どう考えても言い訳としか思えない。父は、桜子を手元においておきたいのだ。
「で、でもね、桜子には、今大切にしたい友達や生活もあるわけだし……」
「……そうか。あや女は桜子に俺を説得するように頼まれたんだな。でも、ダメだぞ。家族は一緒にいるのが一番いいんだ」
 その言葉を聞いたとたん、あや女の中でなにかが切れた。
「それを、あんたが言うわけ?」
 怒りのあまり、あや女は立ち上がっていた。ウェイターや周りの客が、興味深げに二人を見ている。
「あんたたちがあたしを一人にして放り出したのは、今の桜子とひとつしか違わない、十八歳のときよ。それを今更、家族は一緒が一番だって? 笑わせないでよ!」
「あや女と桜子では、事情が違うだろう」
 周囲の目を気にして、父はあや女を無理やり座らせた。
「桜子には、幼い頃寂しい思いをさせたから……」
「だから、いつまでも手元において猫っかわいがりしようってわけね。それはあんたの勝手な理屈よ。あたしたちはペットじゃない。あたしたちだって、後悔のない人生を選ぶ権利があるわ。桜子は日本に残させます。本人が、望んでいるんだからね」
 そう言い捨てて、あや女は店を出た。
 最寄りの地下鉄への道を急ぎながら、あや女はこみ上げてくる笑いを押さえることができなかった。
 あや女が(強制的に)独り立ちさせられたときは、口答え一つしなかった。
 できなかったのだ。自分が生まれてしまったばっかりに、何人もの人生を変えていた。そのことがショックで、文句なんて言える立場ではないと諦めていた。
 それでも、言いたいことが本当はあったのだ。それを、桜子のためということで、父にぶつけることができた。
 持つべきものは、わがままな異母妹かもしれない。
 そう思いながら、あや女は、今はもう独りではない家への道を急いだ。